題:標本
昔、親と行った博物館で蝶の標本を見た。
息を呑むほど美しく、今にも動き出しそうだったのを覚えている。
思い出と言うのは補正されていくもので、今見れば美しくも息を呑むほどのものではなかった。
多少劣化しているのかも知れないが、幼い頃に受けた衝撃はもう無い。
「凄いね」
それでも隣にいる彼女には新鮮なようだった。
標本をキラキラした瞳で眺めている。
「優は小さい頃来たんだっけ」
「あー、うん」
俺の感想は言わない方が良いだろう。
折角嬉しそうな顔をしてるのに壊すのは勿体無い。
「標本ってさ、作り方とか詳しくないんだけど」
何だか惹き付けられるね、と笑う横顔を見てあの時の俺もこんな風に目を輝かせてたのかもしれないと思った。
「ずっと綺麗なままなんだろうね」
「そう、だね」
記憶は美化されていくのだろう。
初めて見た時の高揚感はこの標本ではもう得られない。
そう思うと少し虚しくなった。
「他のも見に行こう」
俺の気持ちとは裏腹に楽しそうに一つ一つを見ていく彼女が眩しい。
前に進む彼女の足取りは軽い。
標本と違って、彼女は止まらない。
じゃあ、俺はどうだろうか。
最近これと言って新鮮味を感じることもなく惰性で日々を過ごしている。
俺もこの標本と同じなのだろうか。
いつか、知心と離れて。
今の俺みたいに思い出補正が掛かった世界を見るのだろうか。
それで、実際の俺はそんなことなくて。
記憶の中で美化された俺がいるんだろうか。
「優?」
知心の声で現実に引き戻される。
先に行っていたと思ったが、俺がいない事に気付いて戻ってきたみたいだった。
「どうしたの?この標本見てからずっとぼーっとしてる」
心配そうに見つめる知心の目には、どっちの俺が写っているんだろうか。
…そんな事は口が裂けても言えないのだが。
「いや、昔この標本見て息を飲んだなあって思い返してた」
他にも沢山のものを見てきたのに、これが脳裏に焼き付いて離れなかった。
父親と一緒に出掛けた最後の思い出だからかもしれないが、どうしても忘れられなかった。
ここに来れば、会える気がしていた。
実際はそんなことはなかった。
それどころか、記憶が美化されていただけだと思い知らされただけだった。
「小さい頃って、何でもかんでも真新しくて楽しいよね」
そう言った知心は何を考えているのかわからなかった。