題:雨空
「あ、雨」
ふと窓の方を見ると、雨が降り始めていた。
一度それと認識してしまえば不思議なもので、雨音が厭と言うほど耳に染み付いてくる。
誰もいない放課後の教室。
静かな空間だから尚更、雨音が強く聞こえる。
「傘あったかなぁ…」
予報じゃ降らないって聞いていたし、折り畳み傘も干してて置いてきた気がする。
学校に残れる限界の時間までに止めばいいんだけれど。
雨に意識を向けていると、ガチャ、と後ろのドアが開く音がした。
「えっ、知心?」
驚いた声が私の名前を呼んだ。
名前を呼ばれたことに驚きつつ声のした方を見ると、そこには優がいた。
「えっ、帰ったんじゃなかったの?」
荷物もなかったし、早々に帰ったと思っていた。
そのはずの優が未だに学校にいることはにわかには信じ難いことだった。
お互いに驚いたまま顔を見合わせる。
しかし優はパチリと瞬きをして、すぐに一人納得したようだった。
私はおいてけぼりか。
またか。
「進路指導室にお呼ばれ」
「あぁ…」
まだ1年、と言っても2年制の学科だから仕方ないかもしれない。
進路指導もやってくれる先生は…あまり評判が良くないけど。
私も出来ることなら個別のお世話になりたくない。
「知心は?」
私が答えるより早く、後ろから画面を覗き込む。
耳元で声がして心臓がうるさくなった。
画面には授業で教わった分以上に進んだ課題。
「あ、あー…えーと…?」
「知心…」
さっきまでとは違い、低くなった声にひぃっと小さな悲鳴をあげてしまう。
恐る恐る優の方を見ると冷たい目でこちらを見ていた。
「な、に、やってんのかなぁー?」
「ぴぎゅっ」
びっくりして変な声が出た。
顔が近い。
「お前3D長時間見たらまた偏頭痛で泣く羽目になるんだぞ」
肝心の優はそんなことお構い無しに説教モードだ。
「それに授業中ならまだしも放課後の、誰もいない教室でやるのはどうなんですかねぇ」
目が全く笑っていない。
待って待ってそれ以上に顔が近くて恥ずかしくなってきた。
「あのー…」
説教はともかく近いのは勘弁して欲しい。
自分の顔が熱くなっていく感覚を覚えた。
「言い訳は聞かないぞ」
逃げ腰になっていたのもあって、言い訳をしようとしていると思われた。
椅子の背もたれに手を置いて、グッと体全体が近付く。
あああ、もうこれ以上は無理!
「違う近い近い近い!」
恥ずかしさで頭の中が真っ白になりそうだ。
私の叫びで、ピタっと動きが止まる。
数回瞬きをして、呆れた顔で一言呟いた。
「今更?」
「はぇ?」
また素っ頓狂な声が出る。
「さっきから変な声出しすぎ…」
完全に気を削がれた顔で隣の椅子に座る。
頬杖をついて、じとーっとこちらを見てくる。
「知心と俺の距離が近いのは今更でしょ。あのくらいの距離しょっちゅうやってきてんじゃん」
そう言われて、普段の距離感を思い出す。
確かに普段からかなり近い。
変に意識してたのが自分だけで、恥ずかしさが増してくる。
「あ、あぁと…」
「てか先生は?」
言葉に詰まっている間に別の話題が出てきた。
もう完全に興味が失せている時の表情だ。
「先生は…30分くらい前にはいた」
「30分…3Dやってる知心を30分放置かぁ…」
あ、また説教モードに入りそう。
優の説教は地味に長いから、その間に少しでも雨止むかな?
「まぁいいや、帰ろ」
野暮なことを考えていたら、溜息一つで終わっていた。
呆気に取られていると、優がこっちを見る。
「それ以上の作業は知心の体調的にダメ」
先に帰るのかと思ったけど、どうやら私も帰れということらしい。
先生が見ていない中、私一人で作業させることが不安で仕方ないみたいだった。
窓の方を見ると、まだ雨は強い。
あの中を歩いて帰るのか…。
風邪ひかないといいな。
「知心、傘は?」
機嫌が悪いのか、いつも以上にぶっきらぼうだ。
「わ、忘れ…まし、た」
えへ、と少しボケて見るけど、忘れたと言いかけてる辺りから視線の冷たさが増していた。
さっき以上に深い溜息をつく。
「…家まで送る」
そう言って、さっさとドアの方に向かって行った。
「へ?あっ、待って!」
まだ帰る準備も終わっていなかったので、慌てて準備をする。
正直、今の優はちょっと怖い。
急いで後を追いかけると、玄関で優が待っていた。
「優さん…早い…」
「んー」
気のない返事に何を考えているのかわからなくなる。
息を整えて前を向くと、傘をさして待っていた。
「早く入って」
「えっ、あっ、あいあ…」
「一本しかないんだから我慢して」
言い終わるより早く、腕を引っ張られる。
「狭いけど我慢して。んでもうちょっとこっち寄って」
そこまで大きいわけでもない傘に2人は流石に狭い。
寄ってと言われても、歩きにくくなってしまう。
少し肩が濡れるけど、入れてもらってるから…と思いつつ歩く。
「知心」
名前を呼ばれる。
優の方を見ると、私より肩が濡れているのが見えた。
私が少しでも濡れないようにと気にかけてくれていたようだ。
「多少歩きにくくてもいいからもう少し寄れる?」
風邪ひきそうと少し笑う。
あれ?機嫌悪いんじゃ…?
「いつもと違う近さだから恥ずかしいかもしれないけど、我慢してね」
そう言った優の表情と声は柔らかかった。
少し赤い頬と耳を見るからに、恥ずかしいのは私だけではなかったようだ。
「そういえば」
いつだったか、ネットで見かけたものを思い出す。
「どうしたの?」
「相合傘してる時に聞こえる相手の声は一番綺麗に聞こえる、みたいなの見かけたことある」
実はちゃんと覚えてないんだけど。
「へぇ」
そんなに興味はなさそうだった。
言葉は少ないけど、優の声がいつもより心地よく聞こえるので、間違いではないと思う。
こういうのもたまには悪くないな。
雨が少し好きになれそうだった。